藤本 薫

藤本 薫|ふじもと かおる
1914年(大正3年)1月1日 ー1942年(昭和17年)3月9日

父敏雄が広島逓信局勤めであったため広島県で生まれる。11歳で父の本籍地である高松市仏生山町に帰郷する。香川県立高松中学(現、香川県立高松高校)時代には植田一、佐藤正男らと黄金時代を築く。その後、早稲田大学に進学後、髙野佐三郎や斎村五郎らに師事し、逆二刀を開眼する。父親の急死をうけ、家業の郵便局を継ぐために早稲田大学を中退し、帰郷する。植田平太郎範士に師事し、腕を磨く。

昭和9年5月5日に宮城内濟寧館で行われた皇太子殿下御誕生奉祝天覧試合の剣道府県選士の部準優勝。「昭和の逆二刀・天覧試合の花形」と謂われた。

ペグ―(ビルマ)攻略戦において英機甲軍との交戦中、左腕に貫通銃創を受ける。その後、野戦病院で左腕切断の手術を行う。ガス壊疽のため9日死亡。享年28歳 陸軍大尉に特進。剣道三段

「俺、左腕が無くなったら剣道ができんよになる。」と言ったと謂れている。

昭和9年5月4日、天覧試合を前にして

昭和9年5月5日に宮城内濟寧館で行われた皇太子殿下御誕生奉祝天覧試合の剣道府県選士の部決勝試合。藤本は破竹の勢いで強敵を次々と打ち破り、決勝の舞台に登りつめる。
左 野間 恒(六段相当) 右 藤本 薫(三段)。中央は小川金之助審判員
藤本は、多彩な攻め口で見事な胴を先取しながらも、激戦の末、胴と面を返され惜敗する。

参考文献大日本雄辯会講談社編「皇太子殿下御誕生奉祝天覧試合」
植田一「流れ星」
庄子宗光「剣道百年」
早瀬俊之「タイガーモリと呼ばれた男」
萬里閣「秘録大東亜戦史・マレー・ビルマ編」
南堀英二「昭和の二刀流ビルマに死す」
株式会社剣道日本「剣道日本」復刊特別号2018年0号(Vol.1)